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うーん、ネットにおける言論活動というのは、「人」が対象になることが多い気がする。いま、Xという(ある人にとって)好ましくない事象があったとする。その人はXが存在する世界を好まないので、Xが消えるように行動するのが合理的である。しかし、実際に取られる行動は「Xを推進する人への攻撃(口撃)」であることが多い。しかも、ほとんどの場合において一方的な糾弾であり、Xを推進する人が何を言おうとも意に介さずに「でもXは間違っている」と主張する。これが賛否ある事象ならともかく、問題は、実際にXが間違っている場合。Xは間違っているので、理としては糾弾側にある。
さて、糾弾されたXの推進者はどうなるか。「すみません、間違っていました」と改宗することは稀であろう。少なくとも僕の観測範囲において改宗者はみたことがない。Twitterなら糾弾者をブロックしておしまい。他のX推進者と連携を強め、X信奉を強化する結果となっている。Xの糾弾者が得たものは、Xの推進者からの敵意とブロックだけ。本来の目的である「世の中からXを減らすこと」には貢献していない(少なくとも僕にはそう見える)。それどころか、Xの真偽がよくわからない非専門家がそのやりとりを見て、「Xの糾弾者は怖い」「Xの推進者は被害者である」と思ってしまう。
よく、批判と人格攻撃は違うと言う。糾弾者は「間違っているものを間違っていると言っているだけなのだから、それを攻撃と受け取るのはおかしい」と主張するであろう。しかし、結果として相手に敵意を抱かせ、改宗者が増えないのであれば、その指摘は逆効果に思える。Xを減らすのが目的だったはずの「指摘」が目的化してしまっている。
事象Xの撲滅運動に活発に関わる人は、「敵」「味方」認定が強い気がする。一度「敵」とみなしたら、その人の活動を監視、過去の活動を洗い出し、事象Xとは無関係なところで「こんなアホなことを言っている」と言う。これは典型的な藁人形論法なのだが、正義のためにはそのような些事は関係ないのであろう。
個人的な意見としては、すでにXを信奉してしまっている人の「改宗」は極めて難しいため、まだ信じるかどうか決めかねている人にアプローチすべきだと考える。
いずれにせよ、人間と直接議論したり、議論しているのを見るのは消耗だ。僕としてはネットの海に文書を流して、たまに「いいね」がつくくらいの間接的な距離感がちょうど良い。