2021年3月26日

物理情報専修の修了式。対面でできて良かった。

いろいろ予定がごちゃごちゃしてて整理できていない。

重い腰をあげて「ゼロから学ぶPython」のIssueを全て片づけた。初めてしまえば一時間仕事なんだけど、なかなか取り掛かることができなかった。関連して「ゼロから学ぶPythonプログラミング」の正誤表も更新。

午前はgnuplotハンズオン。午後に物理情報工学特別講義の録画。そのあと研究室ミーティング。さらに輪講。

輪講の余談は微分形式。余談を記事にまとめようと思っていたのだが、とてもそんな余裕がない。

WSLでXがつながらなかった原因、Windows Defenderのファイアウォールのせいだった。VcXsrvのパブリックにもチェックが必要だった。

Authorization required, but no authorization protocol specified

と言われたら「VcXsrv」の「Disable access control」にチェックを入れれば良い。

gnuplotハンズオンした。

情報コンセントの設定を変更したら学生部屋がつながらなくなってた。対応をお願いしたらするなおった。感謝。

情報公開と批判との話。

誰かがネットになにか技術記事を上げたとする。それに対して批判が寄せられたとする。その批判は正当な場合も、理不尽な場合もあるだろう。しかし、その批判の口調(文体)が強かった場合、技術記事の執筆者は心にダメージを負う。特に、最初に書いた記事が「プロ」に袋叩きにされた場合、その人は二度と技術記事を書かないであろう。

誰かが本を書いたとする。作家と異なり、技術系の本はほとんど儲からない。教科書の執筆も、かける時間を考えればとてもペイしない。でも、それによって世の中が良くなると信じて書く。そんな思いで書いた本にAmazonレビューで星一つとともに辛辣なコメントが寄せられる。その人が次の本を書く意欲は減るだろう。もしかしたら二度と書かないかもしれない。

「そういうのは良くない」というと、必ず「情報を不特定多数に公開するというのはそういうことだし、それが嫌なら公開しなければ良い」という意見が寄せられる。もしくは「そういう人は必ずいるので、気にしなければ良い」という人もいる。どちらの意見も正しいが、僕個人としては、「個人の生産意欲を削ぐような言動は社会全体の不利益であり、やめたほうが良い」ということを発信していきたいな、と思っている。

心無い批判のような、いわゆる「チクチク言葉」は、アレルギーのようなものだと思っている。「批判が嫌なら公開するな」というのは、スギ花粉のアレルギー持ちの人に向かって、「花粉が嫌なら外出するな」という言葉に対応する。「そういう人は必ずいるので、気にしなければ良い」という言葉は、「この季節は花粉が飛ぶのは仕方ないから我慢しろ」と言っているに等しい。どちらも論理的には間違ってはいないとは思うが、その方針が幸せな世界を作るのか?と言われると疑問である。

バリアフリーという言葉がある。例えば駅前の階段にスロープをつける。利用者は車椅子にのっている人で、車椅子を使っていない利用者の人数に比べて圧倒的に少ない。でも、みんな費用対効果がどうとは言わない。車椅子に乗っている人が、車椅子にのっているという理由で行動が制限される世界は不幸であり、なるべくそのような制限(バリア)がない世界(バリアフリー)の方が幸せだという共通認識があるからだ。

「打たれ弱い」人に「なら技術記事を公開するな」というのは、アレルギー持ちの人に対して、「アレルゲンに近づくな」という助言に対応し、これには正しい一面もある。また、スギ花粉を全滅させるのは困難を極めるので、「アレルゲンを無くす/減らす」というのは理想論であろうことも知っている。でも、昔は「我慢が当たり前」だった概念が、いまは「我慢しないのが当たり前」になっている例は多数あるし、やっぱり声を上げていかないといけないんじゃないかと思う。